八五九堂 Blog 

船橋を愛するオヤジの写真とカメラと酒麺飯クロニクル  

【雑感】親と離れて暮らすと言うこと。父の病気のこと。家族葬のこと。

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父が逝って2ヶ月。今日が2度目の月命日。
この連休は実家に帰省します。母が一人で居るしね。

高校の同期会があるらしいから出てみるのもイイかなと思っていますが、
いまいち気持ちのノリが悪い。

母の年金暮らしを考えて無線LANを解約したのが痛い。実家では何も出来ない。

 

親と離れて暮らすと言うこと

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ぱくたそ(www.pakutaso.com)

 

函館なんてすぐ近くだと思っていた。

実際に飛行機なら一時間強だし、各々の空港もリムジンバスやタクシーで瞬く間に帰る事が出来る。なんなら北海道新幹線で4時間強もそんなに苦じゃない。

でも今回は遠かった。

大雪で飛行機は全部欠航、新幹線も秋田新幹線不通の影響で遅れた。新幹線は14時~17時の間の北海道新幹線は無いのね。結局、17時代の新幹線で6時間掛かった。

入院中は一度見舞った。そして最後の連絡を貰って新幹線に乗り、なんとか死に目に会えた。

母は死に目に会えただけでも良かったと言うが、本当に会えて良かった!が、何か虚しさを感じている。

父との最後の共有時間はその時の3時間だけ。
呼吸がままならず苦しそうに寝ていた顔やボヤッとした瞳、ベットで跳ねる様に動く体の動きしか知らない。止まって行く心臓。あの機械の無情な警告音。静かになった時、心底から泣いた。

函館に住んでいる母や弟夫婦は思う事が違う。
一緒に居る時間の長さや密度が違うから後悔することはたくさんあるため、色々思い出しては泣いていた。母も同じだ。

母は今も朝、親父の「かあさん!」と呼ぶ声が聞こえるらしい。

私の後悔はもっと早く帰れば良かった。(例えば前日)もっと数回、帰って勇気付けたかった。そんなことだけ…。少しでも話したかった。最後に話したかった。

自分の事ばかり。そばに居れば…。

そして、まだ夢に出てこない。夢でもイイから話したい。そう想っています。

  

病気のこと


難病でした。
難病だから特別だと言う意味ではありません。
病名を調べても情報が少なかった。
だから少しだが書いておきたい。

3年前に胃の不調で検査入院をしたが原因は分らなかった。
ピロリ菌や潰瘍ではなかった。
食欲が落ち、当然の様に痩せた。
体躯はいい方だったから、同時期に甥の結婚式で会った時はその痩せた体に驚いた。

2年前、原因が分らないのでセカンドオピニオンを求め病院を変え、その病院で好酸球胃炎(難病指定)と判明した。
数度の内視鏡の検査は老体には応える。更に痩せた。でもセカンドオピニオンは重要だ。
同時に前立腺ガンも見つかったが悪くはなかったので両方の治療を開始した。
だが、その医者も好酸球の疾病治療は未経験だった。
少量(本来は大量の投与から減らすのがベターらしい)の投薬治療により胃炎は復調の兆しが見え、食欲が戻り体重減は止まった。順調だった。

 

昨年11月、大雪の後の氷の様な横断歩道で転倒し大腿骨を骨折「油断した~!」と笑って言っていたらしい。
救急の人工関節手術は成功したが、直後から微熱があった。

設備が充実している病院にリハビリ目的で救急から移動し入院。
元気は無かったが病院食は「美味い」と言って全部食べていた。

検査の結果、微熱の原因は好酸球肺炎と判明する。
今度は肺炎だ。
幸いこの病院の呼吸器系の医師は好酸球の疾病の治療経験があり、適切な治療で好酸球肺炎は治まった。
薬を大量に投与し徐々に減らしていったらしい。

この後、千葉から娘が見舞いに行き、母と娘と一緒にカツ丼弁当を食べたほどに元気になった。

いよいよ大腿骨のリハビリを開始した時にまた発熱する。
今度の診断の結果は間質性肺炎(肺胞の肺炎ではなく肺の外側の肺炎で伸縮しなくなる)と判明し、医師の説明には専門医の居る病院への転院案もあったらしいが、父本人の希望で転院(好酸球肺炎を治してくれた信頼があった様だ)はせずに治療することになったが、間質性肺炎は不治の病だった。

 

好酸球胃炎、好酸球肺炎、間質性肺炎と、何時何処でどんなスイッチが入ったのか分からない、そもそも発症原因も不明らしい。

亡くなる当日、昼に見舞いに来た友人と呼吸が苦しいながらも談笑していた。
担当医から説明があり、母は医師に家族を呼ぶ様に言われ、私に連絡が入った。
談笑しているのに今夜が山だとは信じられなかったそうだ。そうだろうなぁ。
間質性肺炎だと医師から説明があった日から僅か7日後のことだ。

医師は寝ると呼吸が浅くなり最後は心臓が止まると分かっていたらしい。
肺の周りの細胞は死んでいた様だ。足には酸欠のためチアノーゼが出ていた。


父はこの数日は自分が死ぬかも知れない恐怖と戦っていた様だ。
ガラケーのメールに文面が残っていた。
生きようとして廻りの人達に無茶を言っていたかもしれない。
生きるために食べたがっていた。
呼吸か、食事か。苦しくても食べたがったらしい。


その日も翌朝に普通に目を覚ますつもりで目をつむったが、それが最後で起きることはなかった。

 

申請に時間が掛かった難病指定の保険証。
保健所に返納した時はただの紙切れにしか見えなかった。

 

家族葬のこと

 

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ぱくたそ(www.pakutaso.com)

 

父は教師だったので当然教え子が多い。
東京に勤めている私の会社にも数名教え子が居たくらいだから教師と言う職業はまったく恐ろしい。(お釈迦様の手の中の様だ)
父の実家は禅宗だったが生前お坊さんを嫌っていたので意思を尊重して無宗教の家族葬にした。

病院が死んだらすぐにどうするか問うてくるのにも驚いたが、急かされるままに数年ぶりに黄色い電話帳を捲って葬儀屋を決めた。
決めると言っても決め手が無いので、斎場が実家に近い葬儀屋さんにした。
背丈ほどに雪が積り、ホワイトアウトの様な地吹雪で目を開けられない吹雪の中を葬儀屋の車はお尻を振りスリップしながら父を斎場に運んでくれた。

家族葬用の斎場はこじんまりして丁度良かった。
そこは寝食が可能で弟家族が父の側で夜を共にしてくれた。
葬儀屋さんの応対も親切で助かった。
たまたま選んだ葬儀屋さんだったが、父が選ばせたのかも知れない。
あとで聞いた話しだが、夜、生仏を置いて閉め出される斎場もあるらしいから、本当に良かったと思う。


無宗教の葬儀というのは厄介だと後で気づいた。
宗教毎のしきたりがあり、それに任せれば良い訳だが、そのセオリーが無い訳だから、全部自分たちで決めなければならない。
お坊さんも呼ばなければ戒名も無い訳だ。


納棺師を初めて見た。
親父が綺麗になって旅立つ準備が整う様を見て、此処にお金を掛けて良かったと思う。(決してケチったりした訳ではないが衣装や棺桶などは良い物にした)

通夜も本葬も行わないのに斎場にも父の友人達が会葬にきてくれた。
見舞いに行ったら病室には違う人が居て問い合わせて来てくれたのだ。
北海道新聞に火葬等の全てが済んでからの掲載にしたのに、この二ヶ月間に実家に訪ねてきてくれた人達は60人以上。父の人徳だと思う。
母は大変だったと思うが気が紛れたのではないだろうか。


家族葬にして残った家族の絆は一層強くなったが、無宗教はお勧めしない。
正直に言って、これだけでもヘトヘトになった。

 

先日、特にお世話になった方々に御礼を送り、あとは納骨だけだ。
もっと暖かくなったら土に帰って貰おうと思う。

 

 

 

さぁ、今日は母とゴンと空(愛犬)と散歩に出掛けて来ます。

一年後、もしかしたら五年後くらいに父のことを文章に出来ればと思っています。


最後までお読み頂き有難う御座いました。 

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